大判例

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大阪高等裁判所 平成9年(う)41号 判決 1997年8月29日

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役三年に処する。

この裁判の確定した日から五年間右刑の執行を猶予する。

原審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、検察官大塚清明作成の控訴趣意書に、これに対する答弁は、弁護人寺内清視、同西口徹、同三浦直樹連名作成の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

第一  控訴趣意のうち、事実誤認ないし法令適用の誤りの主張について

所論は、要するに、原判決は、被告人の本件殺人について、末必の殺意を認定するとともに、過剰防衛の成立を認めているが、被告人は、確定的殺意をもって被害者を殺害に及んだものであり、また、被告人が殺害行為に及んだ際には、被告人の生命、身体に対する急迫不正の侵害はなく、被告人には防衛の意思も認められないのであるから、過剰防衛の成立を認める余地はない、原判決は、証拠の評価・取捨選択を誤り、事実を誤認した上、法令の解釈・適用を誤ったものであり、右誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討するに、原判決挙示の各証拠によれば、原判決が、末必の殺意にとどめ、かつ、過剰防衛の成立を認めた点に、所論が指摘するような誤りはない。以下、所論にかんがみ説明を付加する。

一  殺意について

所論は、被害者甲野太郎の受傷状況や被告人が被害者を包丁で刺すなどした状況等に照らすと、被告人に確定的殺意があったことは明白である、と主張する。

本件は、被告人が、居酒屋「うちだ」店内で、カウンター席に座って職場の同僚と飲酒歓談中、突然被害者に背後から包丁(刃体の長さ約一一・五センチメートル)で刺されたため、右包丁を奪い取り、被害者に対し数回突き刺すなど反撃に及び、死亡させた事案であるところ、関係各証拠によれば、被告人は、被害者から包丁を奪った後、左手で被害者の胸ぐらをつかみ、右手で包丁を高く振りかざし、被害者が近づかないよう包丁を被害者に向けて振り回しながら、店の出入口の方に押していったこと、その結果、被害者の身体には、左側頚上部に深さ約六・五ないし七・五センチメートルの刺創、左眼部に深さ約四・五センチメートルの刺創、下顎部左側に深さは下顎骨に達する切創、前胸部左側に深さ約五・五センチメートルの刺創、上背部に深さ約六・五センチメートルの刺創等が生じたことが認められる。これらの事実によれば、被告人の刺突等の行為は、至近距離からの頚部、顔面、胸部、背部といった身体の枢要部に対するものであり、その刺創の深さも相当なものであることは所論が指摘するとおりであるが、各部位への刺突がいずれも一回であって定まらず、特定の部位をねらって思い切り突き刺したというよりは、被告人が供述するように、突然被害者に背後から包丁で刺されたため恐怖心にかられ、無我夢中でめちゃくちゃに包丁を振り回していたとみるのが相当である。しかも、被告人は、捜査段階から一貫して被害者に対する(確定的)殺意を否定しているところであり、また、これまでの被害者との関係からして、背後から包丁で刺されたからといって、これが直ちに被害者に対し確定的殺意を抱くような動機付けにまでなるとは必ずしもいえない。そうだとすると、凶器である本件包丁の形状、機能や刺突の部位、回数、態様、刺創の深さ等、所論が指摘する点を考慮してみても、被告人に確定的殺意があったとまでは断じ難いというべきである。したがって、末必的殺意にとどめて認定した原判決には事実誤認はなく、所論は採用することができない。

二  過剰防衛の成立について

所論は、原判決は、被害者は被告人の背中を刺突後なお攻撃を加えようとする状況にあったこと、被害者は、包丁を奪われた後も、なおも包丁を奪い返すなどして再反撃の挙に出る余地がないとまではいえない状況にあったこと、被告人側の防衛力は背中に致命傷ともいえる重傷を負ったことにより、相当程度に打撃を受けていたことなどから、被害者から包丁を奪い取った後も、被告人が一連の刺突行為を行ったときまで、急迫不正の侵害はなお継続し、失われていないと認めるのが相当である、と判示するが、原判決が判断の前提とする事実関係には明らかな誤りがある、すなわち、(1)被害者がごく短時間にかつ簡単に包丁を奪い取られていること、被告人と被害者との間には、顕著な体格差があり、年齢からしても体力差は歴然としており、しかも、包丁を奪われた被害者は素手の状態となっていたことなどに照らすと、被害者が被告人を一回刺した後なおも攻撃を加えようとしたとか、包丁を奪い返して再反撃に出ようとしたとは認め難く、(2)被告人の受傷の程度は軽微であり、(3)被害者には、被告人を殺害するまでの意思はなく、せいぜい被告人に傷害を加えるという意思にとどまっていたものと認められる、したがって、被告人に対する急迫不正の侵害は、体格的にも体力的にもはるかに優勢な被告人が包丁を奪い取った時点で終了したものとみるべきである、と主張する。

被害者による被告人の背部に対する刺突行為が急迫不正の侵害に当たることは明らかであり、争いのないところであるところ、その後被害者になお侵害行為といえるものはあったのか、被告人が被害者を包丁で突き刺すなどする段階まで、急迫不正の侵害の継続は認められるかが問題である。ところで、この間の被告人と被害者とのやり取りの内容については、居酒屋店内での出来事ではあるが、同じカウンター席に座っていた被告人の同僚等の相客もカウンター内の調理場にいた店の経営者親子も、ごく断片的にしか目撃しておらず、もっぱら被告人の供述によらざるを得ない。被告人の供述は、捜査段階から原審公判に至るまで概ね一貫しており、その内容は、背中の傷みを覚えて振り返ると、被害者が、「なめてんのか」といった言葉を口にし、包丁を自分の腹の前に構え、被告人の方に向けていた、その後、包丁を握った被害者の両手をつかみ、双方で包丁の取り合いとなり、店の入り口の方に押す感じで移動したところ、いつの間にか被害者から包丁を取り上げていた、被害者がまだ向かってくるような感じがしたので、「来るな、来るな」という気持ちで、被害者に向けて包丁を夢中で振り回していた、被害者は包丁を奪い返そうとする様子はなく、別の凶器を持っているという様子もなかった、新たな攻撃を加えるようなこともなかった、というのである。被告人の供述は、必ずしも詳細かつ具体的ではないが、不意をつかれた後の興奮し緊張した状況でのこと故に、記憶が鮮明に残っていないからといって格別不自然とは思われないこと、断片的に目撃した者の供述ともとりたてて不一致はみられないこと、被害者が包丁を奪い返そうとする様子はなかったなどと、自己に有利とは思われないことも素直に認めていることなどに照らすと、全面的に信用してよいかは別として、少なくとも、これをにわかに排斥することはできないというべきである。所論は、被告人の供述に一部変遷がみられる上、被害者がごく短時間に包丁を奪い取られたことからして、被害者の抵抗や反撃があったとは考えられないとして、これと反する被告人の供述は措信できないとするが、一方的な見方であり賛同し難い。

そして、被告人の供述と他の関係者の供述等関係証拠によると、被告人が被害者に背部を包丁で刺された後の状況については、被害者が、振り向いた被告人に対し、なおも包丁を被告人に向けて構えており、これを見た被告人は、被害者の両手を握り、双方で包丁の取り合いとなり、被告人が包丁を奪い取ってからは、被害者の胸ぐらをつかみ、被害者に対して包丁を振り回しつつ、出入口の方に押していった、被害者は、包丁を奪い取られた後は、包丁を奪い返そうとしたり、新たな攻撃を加えるようなこともなかったということが認められる。右の事実関係を踏まえて考えるに、被告人が被害者から包丁を奪い取った後に限ってみれば、被害者は、素手の状態であり、包丁を奪い返そうとしたり、新たな攻撃を加えたりするようなこともなく、一方的ともいえる被告人の攻撃(反撃)が行われており、加えて、被害者との間には、所論指摘のとおりの体格差、体力差があったというのであるから、被告人が被害者から包丁を奪い取った時点で、被害者による侵害行為は終了したのではないかとみる余地がないではない。しかし、被害者が被告人を刺してから被告人が包丁を奪い、被害者に反撃を加え、最終的に周りの者から制止されるまでのことは、その場に居合わせた相客や店の経営者らが、ほとんど気付かないかのように、ごく断片的な事象としてしか目撃されていないことからして、極めて短い時間での出来事といわざるを得ず、包丁を奪い取る前後で事態が変わったというよりは、一連の流れ、一体的なものとしてみるのが相当であり、これと、被害者からの攻撃は被告人にとって全く予期しないものであったこと、被告人を刺した直後もなお、被害者には包丁を構えて向かっていく様子があったことなどをも併せかんがみると、所論の指摘する被告人と被害者との間の体格差、体力差を考慮に入れても、被告人がもみ合いの上包丁を奪い取ったからといって直ちに被害者の侵害行為は終わったととらえるのは、余りにも形式的な判断であるというべきである。そして、被害者が包丁を奪われた後も被告人と対峙し続け、被害者の方で侵害の意思を放棄するような言動が認められない本件の具体的状況の下では、その侵害の程度は包丁を持っているときと比べて格段に低下したものの、なお侵害行為は続いていると判断するのが相当である。そうだとすると、被害者が被告人に対し確定的殺意を有していたか否かや、被告人の受傷が致命傷ともいえる重大なものであったか否か(これらの点は、関係証拠に照らすと、所論が指摘するように、原判決の認定には疑問の余地がないではない。)を問うまでもなく、被告人が被害者に対し包丁で突き刺すなどする段階まで、被害者による急迫不正の侵害の継続はあったと認めるのが相当である。したがって、所論は採用することができない。

次に、所論は、防衛の意思について、被告人が被害者から包丁を奪い取るや一方的かつ強烈に攻撃を加えているという状況に照らすと、恐怖心で一杯で無我夢中であったとの被告人の供述を信用することは誤りであって、被告人には、防衛の意思はなく、憤激の情にかられるまま仕返しとして本件刺突行為に及んだものとみるべきである、と主張する。

確かに、関係証拠によると、被告人は被害者から何のいわれもなく突如包丁で刺されたのであり、それを知った被告人に被害者に対する腹立ち、憤り等がなかったとはいえないが、前示のような一連の事態の流れからすると、被告人の行動は終始被害者に対する反撃であり、そこには、被害者による急迫不正の侵害に対する防衛の意思が強くあったことは明らかであるというべきである。包丁を奪い取った後、一方的に攻撃を加えていることは、興奮のあまりのこととして理解することも可能であり、これをもって防衛の意思がなかったとはいえない。また、関係証拠によると、被告人は、犯行後駆け付けた警察官に対し、「わしがやり返してやったんや。」と述べたことが認められるが、これも防衛の意思を否定する事情となるようなものとはいい難い。したがって、被告人に防衛の意思がなかったとする所論は、採用することができない。

以上の次第であるから、論旨は理由がない。

第二  控訴趣意のうち、量刑不当の主張について

所論は、要するに、原判決が過剰防衛を認めた上、被告人に対し刑の免除をしたのは、仮に過剰防衛が成立するとしても、犯行の態様、結果等に照らすと、その量刑は著しく軽すぎて失当である、というのである。

そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討するに、本件は、前示のとおり、被告人が、居酒屋で職場の同僚と飲酒歓談中、突然被害者に背後から包丁で刺されたため、防衛のため、右包丁を奪い取り、被害者に対し数回突き刺すなど反撃に及び、死亡させた、という事案である。確かに、被害者からいわれもなく不意に背中を包丁で刺されるなどしたことに対する防衛・反撃行為であり、被害者に相当な落ち度があるとともに、被告人には、恐怖心にかられてとっさに行ったものとして、酌むべき事情があるといえる。しかし、一人の生命を奪った結果が重大であることはもとより、犯行の態様をみても、被害者との体格差、体力差もあって、被告人の方が終始優勢であり、周囲の状況や被害者と被告人との関係等を考えても、被告人として、被害者に対し奪い取った包丁で刺突行為に及ぶことしかとるべき方法がなかったというものではない。原判決は、被告人の犯行について、相当性の範囲を逸脱したとはいえ、その逸脱の程度はわずかであると評価できる、と説示するが、被告人に余りにも寛大な態度といわざるを得ない。

その他、被害者の遺族が被告人に対し厳罰を望んでいること、遺族に対し相応の謝罪や慰謝の措置を講じていないことなどにかんがみると、本件の犯情はよくなく、被告人の刑事責任を軽くみることはできないというべきである。それ故、被告人が本件を一応反省していること、かなり古い罰金前科が一犯あるほかは前科等がないこと、タクシーの運転手として真面目に働いていたこと、同僚等から数多くの嘆願書が寄せられていること、内妻との間に子供が生まれ正式に婚姻の予定でいることなど、被告人のために酌むことができる諸事情を十分考慮してみても、本件が被告人に対し刑を免除するのが相当な事案であるとはいえない。したがって、原判決の量刑は、この点で軽きにすぎ、失当であるというべきである。

論旨は理由がある。

第三  結論

よって、刑訴法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書を適用して被告事件について更に判決する。

原判決が認定した(罰となる事実)にその掲げる法令(刑種の選択を含む。)を適用し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、情状により刑法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から五年間右刑の執行を猶予し、原審における訴訟費用については、刑訴法一八一条一項本文により被告人に負担させることとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 田崎文夫 裁判官 久米喜三郎 裁判官 毛利晴光)

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